Monday, November 20, 2017

最後のドラフト




まず、この論文は日本の歴史の中でとても大切な死から始めたい。もっと詳しく言うと、この死亡は三島由紀夫の死亡を指している。1970年(昭和45年)11月25日に、全国で有名な作家、三島由紀夫は自らつくった「楯の会」からのメンバーの四人と東京にある陸上自衛隊の駐屯地に入って、刀で総監のオフィスに押し入って、対談後、つづいて総監を縛った。それから、三島はばバルコニーで自衛官約1000名の前で演説した。つまり、この演説の課題はどうして自衛隊はまだ「自分を否定する憲法」を守っているかということだった。それに、三島はその質問に対して、ちゃんとした理由を見つけれなかったので、自衛隊が武士のアイデンティティを取り戻しつつアメリカの影響に与えられた憲法に対して立ち上がる義務があると言った。三島は演説のメッセージに効果がないということに気がづいて総監のオフィスへ戻って、結局は切腹自殺した
このいわゆる「三島事件」は全国で放送されていたから、日本の歴史と哲学に関する考えにものすごく影響があった。例えば、哲学者柄谷行人によると、三島の死亡は日本モダニズムの終わりというきっかけだと思われた。それに、三島の死亡以来村上春樹の作品が出版されたことも加え、日本文学はより非政治的になっていった傾向がある。柄谷行人によると、三島の死亡は昭和天皇が死んだ1989年より本当の昭和の終わりだったと考えられている。なぜなら三島の死亡は昭和時代の政治的な価値観と同じだと考えられているからだ
でも、その政治的な価値観は一体何を含んでいるのだろうか。その価値観を見ると、二つの大きな点があることがわかる。まずは、政府と経済から (特に日本憲法の第9条)西洋の影響に押し付けられたものを取り除くことだ。もう一つは「明治維新」にみられるように天皇に政治の力を全て取り戻すことだ。これはもちろんどうして昭和天皇の死亡が大事な事件ではなかったと思っているかという質問とつながっている。第二次世界大戦後、新しい憲法が成立し、天皇は政権を持たない、いわゆる「日本の象徴」になった。天皇が「日本の象徴」という役になってから、1970年に日本の武断的な機能を取り戻したかったのは天皇ではなく三島由紀夫だった。現在、この武断的な価値観を持っているのは「日本会議」という集団だ。この集団は会員に安倍首相さえも含まれている。この武断的な考えが政治に影響があり、この昭和から存在する考えは今だ保守派に必要とされている
でも、三島由紀夫は視野が狭いナションリストだけではなかった。まず、三島はいわゆる「国際学者」という作家の代表だ。実は、西洋な影響を取り除くための昭和維新をサポートしている三島由紀夫は国際化からの影響のお陰で作品ができるようになってきた。三島の伝記作者のジョンネイスンによると、三島の作品は色々な国の作家の考え(特に西洋の作家から)や宗教(特に仏教やヒンズー教)や文明(特にグリーク)などに影響を受けたそうださらに、三島は伝統的な侍の遺産を大切にしていたが、洋風の家に住んでいた
私の要点は三島の国際化を否定しているえは作家と日常生活に対して矛盾がある
三島は国際化のおかげで今の「日本会議」の政治家と同じように西洋からの教育体制で教育を受け、他の文化を経験できる機会もあり、第二次世界大戦後の平和な社会で成長した。これは風刺だ。さらに、もう一つ皮肉なことは三島が国際的な作家として日本文学を世界に知らせたことで国際化に貢献したということだ。

Sunday, November 12, 2017



まず、この提出は日本の歴史の中にとても大切な死亡を初めている。もっと詳しく言うと、この死亡は三島由紀夫の死亡を指している。1970年(昭和45年)11月25日に、全国で有名な作家、三島由紀夫は自らつくった「楯の会」からのメンバーの四人と東京にある陸上自衛隊の駐屯地に入って、刀で総監のオフィスに押し入って、対談後、つづいて総監を縛った。それから、三島はばバルコニーで自衛官約1000名の前で演説した。つまり、この演説の課題はどうして自衛隊はまだ「自分を否定する憲法」を守っているかということだった。それに、三島はその質問に対して、ちゃんとした理由を見つけれなかったので、自衛隊が武士のアイデンティティを取り戻しつつアメリカの影響に与えられた憲法に対して立ち上がる義務があると言った。三島は演説のメッセージに効果がないということに気がづいて総監のオフィスへ戻って、結局は切腹自殺した。
このいわゆる「三島事件」は全国で放送されていたから、日本の歴史と哲学に関する考えにものすごく影響があった。例えば、哲学者柄谷行人によると、三島の死亡は日本モダニズムの終わりというきっかけだと思われた。それに、三島の死亡の以来村上春樹の作品が出版されたことも加え、日本文学はもっともっと非政治的になっていった傾向がある。柄谷行人によると、三島の死亡は昭和天皇が死んだ1989年より本当の昭和の終わりだったと考えられている。なぜなら三島の死亡は昭和時代の政治的な価値観と同じだと考えられているからだ。
でも、その政治的な価値観は一体何を含んでいるのだろうか。その価値観を見ると、二つの大きな点があることがわかる。まずは、政府と経済から (特に日本憲法の第9条)西洋の影響と〜に押し付けられたものを取り除くことだ。もう一つは「明治維新」にみられるように天皇に政治の力を全て取り戻すことだ。これはもちろんどうして昭和天皇の死亡が大事な事件ではなかったと思っているかという質問とつながっている。第二次世界大戦後、新しい憲法が成立し、天皇は政権を持たない、いわゆる「日本の象徴」になった。天皇がこういう役に慣れから、1970年に日本の武断的な機能を取り戻す意を持っているのは天皇ではなく三島由紀夫だった。現在、この武断的な価値観を持っているのは「日本会議」という集団だ。の集団は会員に安倍首相さえも含まれている。それほど影響があるので、この昭和から存在する考えは今だ保守派に必要とされている
でも、三島由紀夫は視野が狭いナションリストだけではなかった。まず、三島がいわゆる「国際学者」という作家の代表だ。実は、西洋な影響を取り除くための昭和維新をサポートしている三島由紀夫は国際化からの影響のお陰で作品ができるようになってきた。三島の伝記作者のジョンネイスんによると、三島の作品は色々な国の作家の考え(特に西洋の作家から)や宗教(特に仏教やヒンズー教)や文明(特にグリーク)などに影響を受けたそうださらに、三島は伝統的な侍の遺産を大切にしていたが、洋風の家に住んでいた。
私の要点は三島の国際化を否定しているえは作家と日常生活に対して矛盾がある。

三島は国際化のおかげで今の「日本会議」の政治家と同じように西洋からの教育体制で教育を受け、他の文化を経験できる機会もあり、第二次世界大戦後の平和な社会で成長した。これは風刺だ。さらに、もう一つ皮肉なことは三島が国際的な作家として日本文学を世界に知らせたことで国際化に貢献したということだ。